2009年07月13日
ゴーギャンを見に行く
7月10日、東京国立近代美術館で開催中の「ゴーギャン展」に行って来ました。ゴーギャン芸術の頂点とも言える大作「我々はどこから来たのか。我々は何者なのか。我々はどこへ行くのか」(ボストン美術館蔵)が初来日しているからです。この絵は、ゴーギャンが自殺を決意して遺書として作成したものだそうです。ゴーギャンはそれまでの株式仲買人という職業を捨て(あるいは株価暴落により失職)絵画に賭ける人生が始まります。しかしゴッホなどと同様、彼の芸術は理解されず、家庭も破綻してしまいます。西洋文明に絶望したゴーギャンは“楽園”を求めてタヒチに渡りますが、引き続き貧困や病気に苦しめられる事になります。自らを“野蛮人”と称し、不思議な魔性と、悲しみ、そしてプリミティブな力強さが漂う彼の絵画はどれも魅力的なものですが、特にこの大作「我々は~」は見ごたえのあるものです。“誰にも見られる事の無い壁画”として、ゴーギャンの渾身のメッセージがこめられているように思いますが、画家はこの絵に関するメッセージを多くは残していません。これは私達、人類への問題提起として、世にも劇的で不幸な人生を送った画家からの永久の問いかけなのでしょう。目の当たりにするこの絵は図版などと比べて特に右側の人物の肌のオレンジ色が神々しいまでの光彩を放っています。中央の果物をとる人物を頂点として、左右に山形に配置された人物の構図、人物の明るいオレンジの肌と対を成す左手奥の神像“ヒナ”など巨大な画面を支える、しっかりとした構成も見逃せません。やはり本物の絵の持つ迫力は、数百数千の図版や解説に勝るものです。本物の絵画だけが持つ、深い感動を味わえた一日でした。(M)(絵はゴーギャン展HPより転載)

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2009年07月06日
京唐紙に見る、粋の極み③
もう一つ「唐長」探検で印象に残った言葉があります。それは11代当主夫人の郁子さんのお話でした。「それまで、唐長はただ古いだけ。業者からの依頼を受けて、どこのお寺、どこのお茶室に使われるかも知らずに、ただただ退屈な作業を繰り返していました。だから面白くもなく、自分達の仕事の意義もわからない。私達は、一からお寺さん、茶道の家元などに直接お伺いし、使われるお部屋のしつらい、思いなどを丹念に聞かせていただきじっくり時間をかけて丁寧に作ることを心がけてきました。それから本当に仕事が面白く、楽しくなってきました」まさに私達が目指す仕事の真髄だと思います。私達は「三方良し」と簡単に言いますが、まずお客さんの顔が本当に見えているのか?を問う事からはじめなければならないと思います。そしてそれこそが経営の永続の大きなポイントである事を、学ばせていただきました。唐長さん、ありがとうございました。(写真は唐長HPより。M)
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2009年07月06日
京唐紙に見る、粋の極み②
11代当主の、千田堅吉氏は「日本人が戦中の灯火管制などで、明るさに飢えていた時に、米軍が純軍事用に生産していた蛍光灯(危険な弾薬庫の安全を確保するために、影を作らない照明として作られた)を大量に持ち込み、それ以降、戦後日本の照明器具の標準とされて来た。それから日本の家屋から陰影が消え、日本人の精神の深み、陰と陽を共に受け入れ、共に生かしてゆくという大切な精神文化が忘れ去られてしまった」と指摘されました。確かに、暗がりや、人の表情の陰影を消し去ってしまう「蛍光灯」によるただただ「明るいだけ」の室内空間は、私達から内省する時間、落ち着きを奪っていったのかも知れません。必要最小限に照度を落とし、尚且つアンティークな白熱灯照明でデザインされた「唐長」三条サロンの空間は居心地の良いもので、3時間30分と言う滞在時間を全く感じさせないものでした。そしてそのほの暗い照明に浮かびあがる唐紙の文様の見せる表情の豊かさは、私達の思索を深く誘う「呪術的な」力をも秘めているように感じられました。(写真は唐長サイトより転載)(M)
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2009年07月06日
京唐紙に見る、粋の極み
7月4日に、京唐紙の老舗「唐長」三条サロンで、400年、連綿とつたわる“京唐紙”の美を満喫してきました。唐紙は平安時代に生まれ、ふすまとか、ついたてを飾る装飾として江戸時代から広まったそうです。おなじみの唐草文様や、幾何学的文様、草木文様、雲や波と言った自然現象をモチーフとした様々な文様を、江戸時代から伝われる「板木」で、また当時と全く同様の手仕事で今日も生み出し続けられています。例えば漆喰壁に模した白地の和紙に雲母(キラ)だけで色づけされた唐紙が、小さな白熱灯のスタンドから灯りに照らされると、その光の拡がりに沿って「瓢箪」や「桜」の文様が鮮やかに浮かび上がります。桜ならば、それはあでやかな夜桜にも似て幻想的で、思わず息を呑む美しさです。同じ塗料、同じ板木で数回塗り重ねられる文様は、一寸の狂いもないその正確さと共に微妙で複雑な陰影を生み出し、深い精神性をも感じさせる美の極致と言えます。(写真は唐長HPより転載)(M)
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